科学的根拠は100%正しいのか!

一昨日、昨日の記事の続きです。


一昨日の記事

昨日の記事


昨日の問題の答から説明します。

まずは、以下、問題の転記です。

では、最後に宿題です。


「Aさん60歳は、高脂血症のためA病院から食事療法を指導され続けています。Aさんは今日病院で主治医から、食事療法をしていますが高脂血症が良くなっていません。高脂血症があると心臓の冠動脈の病気(心筋梗塞等)のリスクが上がるため、食事療法のみでなく高脂血症の薬を毎日飲んで下さいと言われました。また、最近の医学研究においても、この薬の予防効果には医学的根拠があることが証明されていると、Aさんは医師から説明を受けました。インターネットで調べると、その薬は心筋梗塞の予防薬として紹介されていました。でも、隣にすんでいるBさん60歳はB病院にかかっており、高脂血症が続いていますが、そのまま食事療法のみで薬は飲んでいません。ある日、二人は自分の病気について互いに話す機会があり、薬を飲んでいないBさんは、自分は心筋梗塞になるのだと落ち込んでしまいました。」

では、質問です。このまま、Aさんは食事療法と毎日の薬、一方Bさんは食事療法のみで、時が過ぎていくと仮定します。


最近の医学研究では、この薬の予防効果には医学的根拠があることが証明されていますが、この医学的根拠から考えた場合、


「6年後のAさんはどのぐらい安心なんでしょうか? 一方、6年後のBさんはどのくらい危険なんでしょうか?」


「二人が今後の6年間に、心臓の冠動脈の病気(心筋梗塞等)になる確率はどのくらいなのでしょうか?」


1)Aさん 0.008% Bさん  89%
2)Aさん 0.030% Bさん  56%
3)Aさん 0.060% Bさん  47%
4)Aさん 0.150% Bさん  23%
5)Aさん 1.700% Bさん 2.8%



 答えは、このブログの次回の記事にて、説明します。

答えは、5)Aさん 1.700% Bさん 2.8% です。
元になっているデータは以下の論文によります。
Primary prevention of cardiovascular disease with pravastatin in Japan (MEGA Study): a prospective randomised controlled trial.
Lancet. 2006 Sep 30;368(9542):1155-63.

要約は、以下で閲覧できます。
Error - PubMed - NCBI


答えは、5)Aさん 1.700% Bさん 2.8% ですが、どのように思われましたか。


おそらくは、読者によって感想は様々なのではないでしょうか。


このデータを見ると、予防法としての効果は、いわゆる科学的根拠があるわけですが、この薬の効果は各々の患者さん達が期待しているモノなのでしょうか。誤解を受けるとよくないので確認しますが、私はこの薬の効果を軽視したり、この予防法に異議を唱えているわけではありません。


私が言いたいのは以下のことです。


この薬に限らず、多くの場合、医師は「この薬はこうこうこういった効果があるので、毎日飲んで下さい。」といった感じで説明します。


しかし、患者さんたちは、この薬の効果について、どのぐらい正確に把握しているのでしょうか。


もう、皆さんは気付いていると思いますが、この薬を医師の指示取りに毎日飲んだからといって、その全員がこの薬による心臓病の予防効果を得られるわけではないということです。では、この薬を服薬した人のうち、どのぐらいの人がこの薬の恩恵を得られるのでしょうか。

80%ぐらいですか。
それとも30%ぐらいですか。
それとも10%ぐらいですか。
それとも、1%ですか。


答えの前に、少し専門的な話しをします。


そうでないと、正確に説明できないからです。


薬の効果を評価するにはどうすればいいのでしょうか。以前、私が他へ投稿した記事を転載します。以下転載。


>>有効と無効の間に線を引くことは実は難しいのです。多少専門的な話になりますが、ある薬が1つの目的(エンドポイント)に対して、どのくらい有効で、どのぐらい有害な副作用があるかという指標にNNT(Number Needed to Treat), NNH (Number Needed to Harm)というものがあります。非常に乱暴に言うと『何人に投与してはじめて一人の有効症例、有害症例が出るのか』という指標です。たとえば、心筋梗塞を予防する薬を投与した10人と無投与の10人が、一定の期間に心筋梗塞にそれぞれ2/10人(20%)、4/10人(40%)なったとします。ようするに10人に投与した場合2人の心筋梗塞を予防できたということになりますので、NNTは5となります。一方、これを有害な副作用に当てはめたものがNNHです。つまり、NNTが低く、NNHが高い薬が優れた薬ということになります。


注)実際の予防薬では、NNTが5ほど低い薬は殆ど存在しません。もちろんNNTは何をエンドポイントとして設定するかによって大幅に変わってきます。


 このような考え方が出て来たのは最近であり、計算のもととなる比較試験データが多くの薬に関してあるわけではないのですが、医師は処方に際して本来はこのような観点を考慮して処方の有無を判断すべきであるし、投与の目的が臨床上意義が多くの患者さんが感じられるものなのかということにも目を向ける必要があるでしょう。当然ですが、NNTがいくつ以下なら薬として有効かといったコンセンサスは医学界にもまだありません。これからの課題です。だからこそ、患者さんへの説明に際しても、こういった指標で説明することが広まれば、もっと話は判りやすいと思います。極端な話、外来で患者さんが医師に『その薬のこの目的に対するNNTはいくつですか』と聞くぐらいで、いいのではないでしょうか。一般に製薬会社はNNT, NNHを敬遠します。<<


ちょっと難しい話だったかもしれませんが、現在ある評価法では最も客観性の高いものです。


では、答えを述べます。


この薬を6年間服薬した患者さんたちのうち、どのぐらいの割合が、この薬における心臓病の予防効果の恩恵を得て心臓病にならなかったのかを考えた場合の、NNT(Number Needed to Treat) はおよそ91です。繰り返しますが、NNT(Number Needed to Treat) とは、非常に乱暴に言うと『何人に投与してはじめて1人の有効症例が出るのか』という指標です。


つまり、この薬をおよそ91人に投与してはじめて誰か1人がこの薬の恩恵を得るということになります。


きっと、驚いた方も多いと思いますが、患者さんのみならず、処方している医師もこの点を正確に理解していない場合が実際にはあると思います。


昨日の問題の答えは、


5)Aさん 1.700% Bさん 2.8% でしたよね。


この薬を飲まなかった患者さんたちのうち、2.8%が心臓病を発症しました。一方、服薬した患者さんでは、1.7%が心臓病を発症したというわけです。



言い換えれば、


「97.2%の人たちは、薬を飲まなくても、6年のあいだに、心臓病にはなりませんでした。そして、この薬を服薬した人のうち、1.1%の方たちがこの薬の恩恵を受けたわけです。一方、1.7%の人たちは薬を服薬していても心臓病が発症しました。」


ということになります。


私は、数字%の後ろに敢えて、「のみ」とか「も」という言葉を入れていません。なぜなら、それを入れるということは、私の期待が言葉に反映されてしまうからです。


要するに、こららの結果から、結論を導き出すときに、この薬に対する期待が比較的大きい人たちは、毎日飲んでも、1.1%しか恩恵が得られないなんて、この薬は効果がないと結論づけるかもしれません。一方、服薬しなかった場合の心臓病のリスク2.8%が1.7%にまで減少するなら是非飲みたいと思う人もいるでしょう。


ここでの、リスクが1.1%減ったということを、専門的には「絶対リスク減少率が1.1%=0.011である」と言い、この数字の逆数 1 /0.011 ≒ 91 が NNT(Number Needed to Treat) となります。



最後まで、読んで下さったかたは、もうすでに気付いていると思いますが、下記に、私の結論を述べます。



科学的根拠と呼ばれているものは、多くの場合において、統計学的方法によって正当性または有意性を評価しています。つまり、その根拠のなかには、強い根拠もあれば弱い根拠もあります。このことは、医師も含めた自然科学者のあいだでは、当然のことであるはずです。


皮肉なことに、日本語の「科学的根拠」という言葉の使われ方は、非常に曖昧です。


それぞれの実験や調査から出た事実とは、あくまでも結果(データ)なのであって、そこから導きだされる結論は、主観的な要素が含まれることがあります。言葉を使って結論を説明する以上、使用する言葉の曖昧性や主観性が多かれ少なかれ伴うのは避けられないのでしょう。だからこそ、言葉をできるだけ正確に使おうとする意思が、言葉を使ったコミュニケーションには求められるべきなのです。


ところで近い将来、患者さんが医師に「この薬のNNT(Number Needed to Treat)はいくつですか。」と質問する時代は来るのでしょうか。

科学的根拠と根拠の違いはあるの!

 昨日の補足という形で、今回もいわゆる科学的根拠といわれているものについて少しお話しします。昨日の記事を読まれてない方は、昨日の記事を読まれてから、本日の記事を読まれることをお薦めします。


 さて、昨日の記事を読まれた方は、もう気付いているかもしれません。


 そうです。科学的根拠とは根拠という意味と殆ど同じ意味なのです。誤解を恐れずに言えば、科学的根拠とは、あくまで科学の分野における根拠に過ぎないのであって、科学的という言葉が枕詞として付くか付かないかは問題ではないのです。


 ちなみに、科学分野に従事している人々は「科学的根拠」という言葉を、多くの場合、使用しません。「根拠」はただの「根拠」です。英語では、「根拠」のことを「エビデンス(Evidence)」と言いますが、「Scientific Evidence」という表現はあまり使用されていません。例えば、BSE牛海綿状脳症)の検査の際に、「米農務長官が全頭検査の必要性に科学的根拠がないと述べた」などと、日本の大手既成マスメディアは報道しましたが、実際には米農務長官は、「エビデンス(Evidence)がない」と述べたのであって、「科学的根拠(Scientific Evidence)がない」とは述べていません。


 うがった見方をすると、次のように感じることもあります。


 「根拠」の程度が弱くて、それを誇張する必要がある場合に、誇張の枕詞として、「科学的」という言葉を付けてしまっているのではないか。


 自然科学分野での研究結果の評価法として、唯一最も確立された方法は、統計学的分析です。言葉を大切にし、正確な意思疎通をしたいのであれば、科学的根拠という言葉を使用しない方が賢明でしょう。統計学的根拠という言葉を使う方が、まだマシかもしれません。


 いずれにせよ、昨日の記事で述べたように、


 自然科学研究によって出される事実とは、研究方法とその生データ(結果)なのであって、結論ではありません。科学論文の結論でさえ、筆者の主観が入ることはあり得ることであります。科学論文で、最も重要な部分は、その研究の方法と結果が書かれている部分なのです。結論については、その論文の読者によって差が生じることは、十分にあり得るわけです。


 マスメディアが医学や栄養学を始めとする、自然科学の研究を報じるとき、その研究の方法や生データ(結果)は省略される場合が殆どであり、いきなり結論のみが伝えられます。もちろん、多くのマスメディアは、そのマスメディアの読者や視聴者をより少しでも惹き付けたい為に、結論を誇張し、わかりやすく魅力的な表現に直して報道するということが習慣化していると言っていいかもしれません。こういったマスメディアの習慣を解消させるには、読者や視聴者が既成大手マスメディアを一度見捨てる必要があるのかもしれません。


 現代における、個人のインテリジェンスを保つことの意義のひとつは、既成大手マスメディアが垂れ流す文脈から自由になることです。


これからの時代は、インテリの逆襲です。


 
 では、最後に宿題です。


「Aさん60歳は、高脂血症のためA病院から食事療法を指導され続けています。Aさんは今日病院で主治医から、食事療法をしていますが高脂血症が良くなっていません。高脂血症があると心臓の冠動脈の病気(心筋梗塞等)のリスクが上がるため、食事療法のみでなく高脂血症の薬を毎日飲んで下さいと言われました。また、最近の医学研究においても、この薬の予防効果には医学的根拠があることが証明されていると、Aさんは医師から説明を受けました。インターネットで調べると、その薬は心筋梗塞の予防薬として紹介されていました。でも、隣にすんでいるBさん60歳はB病院にかかっており、高脂血症が続いていますが、そのまま食事療法のみで薬は飲んでいません。ある日、二人は自分の病気について互いに話す機会があり、薬を飲んでいないBさんは、自分は心筋梗塞になるのだと落ち込んでしまいました。」

では、質問です。このまま、Aさんは食事療法と毎日の薬、一方Bさんは食事療法のみで、時が過ぎていくと仮定します。


最近の医学研究では、この薬の予防効果には医学的根拠があることが証明されていますが、この医学的根拠から考えた場合、


「6年後のAさんはどのぐらい安心なんでしょうか? 一方、6年後のBさんはどのくらい危険なんでしょうか?」


「二人が今後の6年間に、心臓の冠動脈の病気(心筋梗塞等)になる確率はどのくらいなのでしょうか?」


1)Aさん 0.008% Bさん  89%
2)Aさん 0.030% Bさん  56%
3)Aさん 0.060% Bさん  47%
4)Aさん 0.150% Bさん  23%
5)Aさん 1.700% Bさん 2.8%



 答えは、このブログの次回の記事にて、説明します。


 正解データは、最近の医学論文のデータをおおよそのレベルでもとにしています。


 では、また次回まで。

科学的根拠とは何なのか!

 
 「科学的根拠」という言葉が頻用されています。しかし、「科学的根拠」とは何なのかという点について考え、明確な定義をもって「科学的根拠」という言葉を使っている人は、一体どの位いるのでしょうか。


 生理学、化学、栄養学なども含めた医学での研究の方法として確立しているほぼ唯一のものは、適切な対照(コントロール)と比較してその実験や調査の結果を評価するという方法であります。


 実験や調査の結果を対照と比較する上では、その結果のどの点(エンドポイント)について比較するのかを設定することが必要です。例えば、Aという薬が糖尿病に効くかどうかを調べた調査において、糖尿病の経過のどの点について比較するのかを設定しなければ比較はできません。つまり、一時の血糖値なのか、一定期間の血糖値の推移なのか、糖尿病性網膜症や糖尿病性腎症などの合併症の発症率なのか、入院率なのか、死亡率なのかといった点のどの点について比較するのかを設定しないと評価できません。


 上記のことを踏まえた上で次のことを考えてみましょう。


 ある食品や薬剤が「健康に良い」もしくは「カラダに良い」ということを評価するにはどうしたら良いのでしょうか。比較をする前に、設定する必要のあることが山のようにあるのを理解できますか。たとえば、どうやって適切な対照(コントロール)を設定するのか、結果のどの点(エンドポイント)について比較するのかなど、実験もしくは調査の方法を詳細にかつ適切に設定する必要があります。


 もちろん、その設定のしかたによって、比較の結果は変わってきます。当然です。


 また、比較する点(エンドポイント)が、人間もしくは動物にとって意義の高いものでなければ、その研究の意義自体が低下してしまいます。わかりますよね。具体的に言うと、Aという糖尿病に対する薬の効果を比較する際、例えば投与後3時間後の血糖値のみを比較する点(エンドポイント)に設定して比較した結果において、Aという薬の有効性が示されても、その後の糖尿病の経過にAという薬が影響を与えているのかどうかについては不明です。


 ここで述べている、意義の高いエンドポイントはTrue Endpoint (真のエンドポイント)、意義の低いエンドポイントはSurrogate Endpoint ( 代理のエンドポイント)と各々呼んだりします。


 ここまで、読まれた方は、もう気づいているはず。何をかって?


 多くのメディアや巷で、もてはやされている「科学的根拠」という言葉の多くが、曖昧かつ意義の薄いものであることに。


 「健康に良い」とはどういうこと?
 「カラダに良い」とはどういうこと?


 「科学的根拠」と言われて紹介されるものは、True Endpoint (真のエンドポイント)についての結果ではなく、Surrogate Endpoint ( 代理のエンドポイント)に対する結果である場合が比較的多いです。


 つぎに多くの人が勘違いしているであろう点について説明します。もう気づいている方もいるでしょう。


 科学的事実という言葉もよく使われますが、事実とはどういうことを言うのでしょう。事実とはもちろん客観的なものでなければいけないですよね。解釈によって内容がかわってしまうようなものは事実ではないですよね。


 そうです。科学的実験や調査における事実とは、その実験や調査の「生データ」のみなのであって、そこから引き出される結論ではないのです。


 たとえば、Bという食品を毎日食べると、血液の中で、リンパ球が産生するCというサイトカイン(免疫を調節する血液中の因子)が増加するという結果が仮にあったとします。もちろん適切な対照(コントロール)と比較してです。この場合、食品Bは免疫力を上げるので「健康に良い」または「長生きする」と結論づけていいのでしょうか。大丈夫ですか。


 もうわかりますよね。これは「科学的事実」ではないですよね。


 この実験での結果、または事実は、


 「Bという食品をコレコレこういった方法によって実験調査したところ、食品Bを△日間毎日食べた人たちは、それを食べていない人たちと比べて、血液中のリンパ球が産生するCというサイトカイン(免疫を調節する血液中の因子)が増加した」というコトだけです。


 この結果から、「病気になりづらい」だとか「長生きする」などと結論づけてはダメです。


 でも、「免疫力が上がる」という結論は言っても良いのでしょうか。どうですか。


 もちろん、これもダメです。なぜかって?


 「免疫力が上がる」って、どういう意味ですか。こんな大雑把なものを定義はできません。定義できないものは否定も肯定もできません。


 科学研究の結論は、その結果と違って、科学的である保証はありません。主観的、もしくは都合良くねじ曲げて解釈している結論もたくさんあります。


 もし、「病気になりづらい」だとか「長生きする」かどうかを正確に調査するのであれば、それこそ何十年もかけて、追跡調査しなければ結果はでません。さらに厳密には、調査に協力してくれた人たちを、ランダムに食品Bを食べている食品B群と食品Bの代わりのプラセボ(食品Bに見せかけた偽物)を食べた群の2群に分けて長期間追跡調査する必要があります。もちろん調査に協力している人たちは自分がどちらの群に属しているのかを知ることはできません。こういった方法で、何十年もかけて調査しないと科学的根拠として、食品Bを毎日食べると「病気になりづらい」だとか「長生きする」などとは言えません。


 ここまで、頑張って読まれた方は、もう安易に高いお金を払っていわゆる健康食品を購入したりしませんよね。もちろん、購入するのは個人の自由です。過度な期待をしてお金を無駄にする人や、それを利用して膨大な「お金」を儲ける人を横目でみるのは、正直気持ちが悪いです。元気がなくなります。


 もう少しで、終わります。もうちょっとだけ、おつきあい下さい。


 そんなことを言ったら、調査なんてほとんど出来ないじゃないかと思われる方もおられるでしょう。この方々の意見は、半分は正しいのですが、半分は間違っています。


 新しく認可されている薬剤は、すべてある程度の厳密性で、このような調査を経ていますが、こういった調査はたいへんなので、すべての食品や薬でおこなわれているわけではありません。


 しかし、世界には日本の厚生労働省や研究者も含めて(まあ実際には米国が最も多いのですが)、このような手間の掛かる追跡調査を実行して結果を報告している研究グループはいくつもあります。もちろん、報道の専門である大手マスメディアの一部の人たちは、そのような結果を誰でも手に入れることができることを知っているはずです。


 では、なぜそのような調査の結果は、テレビや新聞、ネットに代表される既成マスメディアに、あまり登場しないのでしょうか。もう、気づいてますよね。もし、気づかれていない方がいれば、その原因は私の今までの説明の仕方が十分でないためでしょう。


 つまり、多くの追跡調査の結果はそれほど人を魅了するようなものではないからです。


 最後まで読まれた方の一部は、がっかりされているかもしれません。しかし、科学的研究の結果とは、概してあまりクリアーなものではないのです。普通に仕事をして生活している人たちは、忙しく自分でそんな調査結果を調べたりはできないですよね。当然です。科学を専門にして仕事をしている人だって、自分の専門でないことを細かく調べる時間的余裕は普通はありません。


 では、どうしたらいいのでしょう。答えは、簡単ではありまえん。


 第一歩は批判的な目を持って、メディアの情報に接することです。正直言って、面白くもないし、気持ちが楽になるわけでもないかもしれません。かえってチョット辛いかもしれません。周りの皆と、健康食品ネタで盛り上がったほうが楽しいかもしれません。もちろん、それは自由です。でも、メディアの情報を批判的な目を持って接することによって得る者が一つあります。


 それは、自由に考える機会を得ることです。


 もし、興味のある方は、まずは世界で最も多くの調査委研究を司っている米国の国立保健機関であるNIH ( National Institutes of Health )のホームページに訪問してみるのもいいでしょう。


National Institutes of Health (NIH) | Turning Discovery Into Health



 忘れていませんよね。


 そうです、NIHの報告だって批判的に見ていかなきゃいけませんよね。偉そうな肩書きの人が言っているコトだって同じです。そうそう、科学以外のことだって同じですよね。そうそう、それそれ。


 
 日本語の根拠という言葉の意味は、「判断を成り立たせるよりどころ」もしくは「行動に正当性をあたえる事実」などと国語辞書には書いてあります。ちなみに英語のEvidenceという言葉の意味も「the available body of facts or information indicating whether a belief or proposition is true or valid」というように英語の辞書には書いてあります。この2つの間に大きな差はありません。

ABCを習う前に

医療事故が起こった時に、患者さんやその家族が何が起こったのかを正確に知りたいと思われるのは当然ですし、またその権利が十分に保障されるべきわけですが、残念なことにその手段が医療訴訟であることが、少なからずあります。しかし、医療者側がすべてをありのままに丁寧に説明し謝れば、医療訴訟が少なくなることは論理的に当然です。正直に説明し謝るのがまず最初にすべきことであり、その後に金銭的な補償の話をするのが順番ではないでしょうか。もちろん、医療事故は多くの医療者にとって大きなストレスであります。正直に話し謝ることは、医療者として苦い経験となります。しかし、医療を続けて行く限り、医療事故は背負っていかざるを得ないリスクなのでしょう。


 医療関係者が事故が起こったときに、謝るということについての2年前の記事を紹介します。米国のミシガン大学で医師が医療事故に対して謝ることを奨励したら、医療訴訟の数も弁護士費用も劇的に減少したという内容です。


 その中で、


こどもはABCを習う前に、誰かを傷つけたら「ごめんなさい」ということを教わるけれども、成熟した医療の世界においては、医療事故に対する極めて有効な対応として、今になって謝ることを教わっている。


 という要旨の文があり、初めて読んだときから強く印象に残っています。訳が下手ですみません。


以下原文引用

“SORRY” SEEN AS A MAGIC WORD TO AVOID SUITS

“It’s a lesson children learn even before their ABCs―say you’re sorry when you hurt someone. But it’s now being taught in the grown-up world of medicine as a surprisingly powerful way to soothe patients and head off malpractice lawsuits. . . .The hospitals in the University of Michigan Health System have been encouraging doctors since 2002 to apologize for mistakes. ‘The system’s annual attorney fees have since dropped from $3 million to $1 million, and malpractice lawsuits and notices of intent to sue have fallen from 262 filed in 2001 to about 130 per year,’ said Rick Boothman, a former trial attorney who launched the practice there.” Associated Press. November 15, 2004

 多くの場合、患者さんと家族は裁判が目的なわけではないと思います。何が起こったのかを知りたいけど、話してもらえないから、訴訟という手段を利用するという場合が多いのではないでしょうか。もちろん、訴訟で勝訴して、賠償金を得ればそれはそれで喜ぶべきことかもしれませんが、本来の目的ではない場合が多いと私は信じています。実際、訴訟に勝っても、真実は闇の中といった事例は多くあります。訴訟とは独立した存在で、患者さんやその家族に真実を伝えられるような、システムを模索する必要があると私は感じています。方法論としては、クリアーすべき点が数多くあると思いますが、患者さんやその家族が真実を知る権利を保障するには、訴訟はベストな手段ではないでしょう。医療者側にも、患者さんやその家族に本当のことを伝えたいと思っている関係者は、多くの場合に存在します。知っているのに伝えないという状況は、ある割合の医療者にとって辛いものであるはずです。もちろん、辛いと感じない医療者が存在することも事実ではあります。


 いわゆる「内部告発」という表現は、真実を隠そうとしている人たちの発想からくるものであり、こういった場合には、新しい表現が必要でしょう。考えてみようと思います。


 医療事故が報道される頻度は確実に増えています。このことは医療事故が増えているということと同意ではなく、それまでは表面化していなかったことが認識されるようになったと考えるのが妥当だと思います。医療事故という問題を考えるときに、未熟な若い医師が医療事故を起こしているという文脈がマスメディアでは頻用されていますが、医療事故を減少させる目的にそって考えると、そのようなステレオタイプな文脈は適切ではありません。実際、医療事故を起こすのは若い未熟な医者が多いという文脈が正しいのかについては、私は多いに疑問を感じます。医師としての経験年数は、有力な要因ではないと感じます。当然ですが、問題はもっと複雑です。いずれにしろ、担当者の責任だけを追求するような判決では、医療事故は減りません。耐震偽装の件ではないけれど、その背景にある病院管理者の責任が問われる判決が繰り返されない限り、裁判は医療事故を減少させる手段にはならないと思います。


最後に、医療事故防止には、組織としてのセイフティーネットを作っていくことが基本的に必要なわけですが、どのようなセイフティネットが有効なのかを、日本も欧米も現在模索し始めたところだと思います。この対策については、またいずれ述べたいと思いますが、多くのマスメディアが前提としている「米国のほうが医療事故が少ないという」文脈は少なくとも正確ではありません。しかし、今後の流れによっては、国によってもしくは病院によって差が出て来るのでしょう。今後、日本の医療状況に適した対策を考え抜いていく必要があります。


興味のある方は、以下のサイトを参照してみて下さい。


http://www.healersofconflicts.com/Articles/apologyarticle.htm#_ednref1

違法助産行為の本質その2

前回の記事「違法助産行為の本質」のつづき


マスメディアやネットメディアが伝える産科医療問題における文脈には、もともと医療が関わる対象は、障害や死亡のリスクが伴っている状況の人たちであることが殆どであるという点が欠如しています。最近の医療事故に対する大手マスメディアの伝え方には私も強い違和感を持っています。ただ、私が違法助産行為の件で、最も指摘したい点は、助産師資格のない看護師が助産行為をすることを強制させられているケースがあった、そして今もあるということです。また、日本産婦人科医会(旧日本母性保護産婦人科医会)は助産師数を増やすための働きかけを敢えてしてこなかったという文脈がマスメディアやネットメディア含めて皆無に等しいという点です。


個々の現場において、産科医と助産師の対立があるかどうかという指摘に関しては、私は興味がありません。対立があるケースもあるし、ないケースもあるということだと思います。個人対個人の問題もあるかもしれないし、複数対複数の場合もあるかもしれません。対立も建設的なものもあればそうでない不幸なものもあるでしょう。ただし、今の日本における産科医療はそのほとんどが医師と助産師、もしくは看護師の協力で行なわれています。助産師のみで行なわれているお産はごく僅かです。さらに、私自身は助産院での助産師のみによる分娩を薦める気持ちは全くありません。理由は、お産において母親もしくは赤ちゃんに何らかの医療行為が必要な事態になったときに対処出来ない例が存在するからです。また、そのリスクについての説明が受診開始時に冷静に行なわれていない点です。さらに言えば、たとえ両親がそのリスクを負うと決断したとしても、産まれてくる赤ちゃんがそのリスクを負うことを決断しているわけではありまえん。もちろん、医師がいても事故は起こるし、助けられないケースもあります。しかし、トラブルが起こった時に適切な医療行為が行なわれれば助けられるケースは必ず存在します。発生頻度の低い問題を統計学スタディで評価するのには限界があります。EBM的な視点を導入することは大前提ですが、RCTは医療の質を改善する目的において果たす役割は少ないと私は思います。RCTではマス対マスでの評価のみなので、たとえば胎児心拍モニター装着の有無は児の救命や予後に影響しないという結果になってしまいます。しかし、個別の例では胎児心拍モニタリングの変化によって緊急に帝王切開を行ない児を救う例は存在します。Benchmark Technique みたいなもので評価することが米国では進んでいますが、EBMの第二幕がそろそろ出てきてもいい時期なのでしょう。


最近の医療事故や医療崩壊といったキーワードで語られている記事には医療者側を擁護するような文脈のものも多いと思うのですが、それに関しても違和感を感じます。もちろん感情としてそのような文脈が作られるのは理解できます。しかし、ただ医療者を擁護してもその文脈では患者さん達には非常に伝わりづらいものだと思うからです。最終的に医療の質をどのように改善していくのかを、模索提示しながらでないと、患者さん達もしくは今後患者さんになる可能性のある人には伝わりづらいと思います。医療に対する要求が高くなってきている現在において、日本産婦人科医会の最近の対応は思考停止に近いと言えるかもしれません。ヒステリックなものを感じます。


もちろん、業務上過失致死傷罪ということで多くの医療事故を司法で裁くのは、やはり無理があるように私も思います。確かに、業務上の不注意によるものもある点ではその通りですが、もともと医療が関わる対象は、障害や死亡のリスクが伴っている状況の人たちであることがほとんどなのだから、機械や交通といったものに関わる業務上過失致死傷罪と同列に裁くのには、司法が動き始める時の判断に始まり裁判の方法や刑罰の重さに関しても無理があると思います。新しい法律や新しい審査組織といった話が出てくるのでしょうが、今のところ、医療者がすぐに出来ることは患者さんたちにありのままを説明すること以外にはないのかもしれません。


でも、今の社会問題における対処は、司法の対応を強化するといったものばかりですよね。なんだか、世の中が負の力にどんどん引っ張られているような気がしてしまいます。


最近特に思うのですが、医療を楽しみながら働いている医療者や個人にそう思わせる体験の頻度が減っているのかもしれないと感じたりします。嬉しかった体験などを口にするのを、敬遠したり苦手な人も多いかもしれませんが、やっぱり、いい医療を追求することが楽しくてかつ快感なのだということを、これからの医療者に感じてもらわないと、医療者はどんどん負の力に引っ張られて、疲れてしまうのではと私自身のことも含めて思います。決して頑張れなどと思っているのではなくてです。そんなこと言われたら、ますます疲れちゃいますよね。


給料が安いことや、いそがしいこと、医局制度に関する不満、医療行政への不満ばかりを話す医師がいます。そういう話も勿論いいのだけど、それしか出て来ないと聞いていてウンザリした気分になります。逆に、今の日本で若い医療者が働くときに、それしかないと仕事上のストレスに耐えられないんじゃないかと、大きなお世話かもしれませんが心配になってしまったりします。

違法助産行為の本質

助産師資格のない看護師に助産行為をさせている産科医院、病院産科は昔から存在しています。また、助産師資格のない看護師が助産行為を行った分娩における事故に対する民事訴訟も増加傾向にあります。そんななか、無資格者に助産行為をさせていた容疑で神奈川県横浜市の堀病院の医師を一度送検しておきながら、横浜地方検察庁は、先日その医師を起訴猶予処分としました。



この件の司法判断に関する記事を毎日新聞から以下に引用します。

厚生労働省の辻哲夫事務次官は1日の定例会見で、「(看護師の内診行為は医師の指示があっても違法という)これまでの見解に変わりがない」と話した。横浜地検が同日、保健師助産師看護師法助産師業の制限)違反容疑で書類送検されていた産婦人科病院「堀病院」(横浜市)の堀健一前院長ら計11人全員を起訴猶予処分にしたことを受けて説明した。辻事務次官は、検察の処分については「コメントは差し控える」とした。助産師不足が事件の背景にあるとの指摘には、「ともかく(助産師の)養成数を増やすんだという形で検討している」と話した。一方、日本産婦人科医会は横浜地検の決定について、「産科医療、周産期医療における構造的な問題であるとの認識に立って決定された」と評価する声明を出した。毎日新聞 2007年2月1日 20時17分

同様の件で、愛知県豊橋市の竹内産婦人科医院の医師も送検されていますが、こちらの件も起訴猶予処分となっています。
四国新聞社



最近、日本産婦人科医会(旧日本母性保護産婦人科医会)は助産師不足がこういった問題の背景にあると言い始めていますが、このようなことを言うようになったのは比較的最近のことです。私が知る限り、少なくとも平成14年度までは、助産師不足是正を訴える政治活動を医会とし行なったという公式報告を医会はしていないと思います。一方、平成14年11月14日に厚生労働省医政局看護課長から鹿児島県保健福祉部長宛に、助産師又は医師以外の者が助産行為を行ってはならないとする主旨の看護課長通知が送られています。
以下にその看護課長通知を引用します。
注)ここから転載しました。http://www.kana-kango.or.jp/info/josan.html

 ○助産師業務について        平成14年11月14日(医政看発1114001)
            厚生労働省医政局看護課長から鹿児島県保健福祉部長宛
照 会
 下記の行為については、保健師助産師看護師法(昭和23年法律第203号)第3条で規定する
助産であり、助産師又は医師以外の者が行ってはならないと解するが、貴職の意見をお伺いしたい。

1 産婦に対して、内診を行うことにより、子宮口の開大、児頭の回旋等を確認すること並びに分娩進行の状況把握及び正常範囲からの逸脱の有無を判断すること。
2 産婦に対して、会陰保護等の胎児の分娩の介助を行うこと。
3 胎児の娩出後に、胎盤等の胎児付属物の娩出を介助すること。
回 答
 貴見のとおりと解する。

しかし、平成15年度事業報告では僅かに助産師不足に言及し始めています。そして、平成16年11月10日付けで、自民党宛に提出した「平成17年度予算に関する要望書」にて、以下のように自民党に要望しています。
以下に原文を一部引用します。
注)ここから転載しました。http://www.jaog.or.jp/JAPANESE/jigyo/REPORTS/H16_reports.pdf
  PDFファイルの24ページ目です。

2.慢性的な産婦人科診療関係医療従事者不足のため、若手産婦人科医師及び助産師数の確保、
増員をお願いする。
3.昭和23年制定の保助看法は、我が国の産科医療の現状にそぐわず、少子化対策等を含めた
「健やか親子21」の遂行に支障をきたしているため、速やかな改正の検討を強くお願いする。

ここで、若手産婦人科医師及び助産師数の確保、増員を要望し始めていますが、それと同時に、保健師助産師看護師法が現状にそぐわないという理由をつけて、同法律を変えることを要求しています。


これは、看護師に助産行為をさせている産科医師を正当化するための、ロビー活動そのものです。もちろん、日本産婦人科医会、日本医師会の主な存在意義の一つが、与党自民党に対するロビー団体であることを多くの識者は知っていると思います。しかし、このタイミングで、保健師助産師看護師法を変えることを要望しているということは、この要望書において、看護師による違法助産行為を法的に正当化するように要望したと受けとるのが自然ではないでしょうか。


さらに、この要望書の中では、保健師助産師看護師法を変えることを要望しているにもかかわらず、看護師に対する助産学教育には全く触れていません。本来、看護師による違法助産行為を正当化するのであれば、看護師に対する助産学教育をセットに話し合わなければ、助産教育を受けていない人が助産する分娩の安全性をどのようにして医会は確保するつもりだったのでしょうか。


看護師に助産教育をさせるということを医会が言い出したのは、これ以降のことであり、つい最近のことです。


平成17年秋に行なわれた、
第9回 医療安全の確保に向けた保健師助産師看護師法等のあり方に関する検討会
日時 平成17年9月5日(月)17:00~ 場所 厚生労働省専用15会議室
の資料にて、


資料全文は以下から
厚生労働省:医療安全の確保に向けた保健師助産師看護師法等のあり方に関する検討会 第9回資料


助産師の現在の充足率はおよそ26%であると報告しています。過去の、充足率には触れていませんが、ここ数年でここ迄減ったとは誰も思わないはずです。


また、厚生労働省(旧厚生省)も、助産師が不足しているという政府見解を比較的最近まで出していませんでした。


ちなみに、上記の医会から自民党への要望書は、小泉政権時代に跳ね返されています。医会、医師会によるロビー活動に異変が起きたのは、この時期だと思います。


この要望書が、跳ね返されたのちに、神奈川県横浜市の堀病院、愛知県豊橋市の竹内産婦人科医院が送検された事件が起きています。
これは、偶然としては出来過ぎです。


では逆に何故、日本産婦人科医会および日本政府は、助産師が不足しているという見解を今まで示して来なかったのでしょうか。


そこには、大手既成メディアが伝えていない理由があるからです。


周産期医療の現場に詳しい人ならば、助産師を雇いたくないと思っている産婦人科責任者(医師)がいることを知っているはずです。その理由として考えられるものには、以下のようなものがあります。


1)助産師には看護師よりも高い給料を払う必要があること

2)助産師は助産の資格、専門知識、プライドがあるため、一部の医師にとっては煙たい存在になり得ること


無資格者に助産行為をさせることは、上記1)の理由において、一部の産科医には経済的利益が生まれます。


一方、不利益を被る可能性があるのは、それらの産科で分娩を行う女性そして生まれてくる赤ちゃんたち、そして忘れてはならないのが、無資格で助産行為をさせられている看護師たちです。


助産師が足りないという理由で、助産師資格のない看護師に助産行為をさせている院長のなかで、その看護師たちに助産師に相当する給料を支払っている院長は何人いるのでしょうか。助産師が足りないという理由で、何十年も前から違法行為を続けてきたのであれば、なぜ日本産婦人科医会は助産師を増やすように厚生労働省(旧厚生省)に要望書を提出して来なかったのでしょうか。


多くの看護師にとって、雇い主である医師が指示している医療行為を拒否するということは、退職を意味するといってもいいでしょう。院長と比べて、弱者である看護師が法的手段にて院長を訴えることは現実的に稀です。もし、無資格者である看護師が事故に関係した場合、誰が責任を取るのでしょうか。無資格者の看護師は法的責任を免除してもらえるのでしょうか。実際には、この二件のケースにおいては、看護師も送検されています。あの看護師たちには、被害者としての側面もあると言っていいのではないでしょうか。本来、責任は権限を有するものに付随するべきものです。


また、待遇の悪い産科医院、病院産科に助産師が就職したがらないのも、当然です。麻酔科やその他の科が常時いない規模の小さい産科病院や産科医院では、麻酔科やその他の科が常時いる大きな規模の病院と比べて、母親や赤ちゃんが急変した場合に、適切な対応が出来ないといったリスクが高くなることを認識していて、小さい規模の病院を敬遠するといったこともあるでしょう。さらには、規模の小さな施設ほど、分娩数あたりの助産師の数が少なく、助産師一人当たりの勤務上の負担は時間、質ともに高くなりやすいのです。しかし、これらは、長い間これらに対して適切に対処せず、それぞれの施設にて助産師の待遇を向上させて来なかったことのツケとも言えます。


要するに、現在助産師が不足しているという現状が確かなものだとしても、それは一部の産科医、そして日本産婦人科医会(旧日本母性保護産婦人科医会)に主たる責任があると言えるのではないでしょうか。助産師不足だなんて、今更何を言っているのでしょうか。自業自得とはこのことです。


大手既成マスメディアの報道には、上記の文脈が欠如しています。


司法、政府にも頼れず、看護師の労働組合も機能していない現在、この状態を改善するには、医療の消費者である妊婦さん、そしてその家族に、無資格者が助産行為をしている産科での分娩を控える判断をしてもらわなければ、当分改善されないでしょう。


私が直接知っているいくつかの病院でも、助産師さんの就職希望が結構あるにもかかわらず、助産師の採用を制限し、若い看護師を優先的に採用していました。このような方針では、熱心で優秀な助産師でさえ、その病院を離れて行ってしまうことが起こります。現在は、堂々と助産師を雇いたくないと発言する産科責任者は、少ないかもしれませんが、昔はそんな話しを産科責任者から聞くことは稀なことではありませんでした。


一度送検した事件が、起訴猶予になった理由として以下のように考えられるかもしれません。彼らを起訴し、裁判を進めた場合には、日本産婦人科医会は逆に厚生労働省(旧厚生省)が助産師不足を認める見解を今まで出して来なかった点を追求し、厚生労働省(旧厚生省)にも責任があると主張するであろうことは十分予想されます。そこで、国民の批判の目が政府に向いてくるリスクを下げる為に、起訴猶予処分という曖昧な結末を考え出したと考えるのが自然かもしれません。


最後に、

正直に働かれている多くの産科医のなかにも、私のこの記事を不快に思われる方がおられるかもしれません。しかし、現代医療において、正直であることよりも大切なことがあるのでしょうか。正直に働かれている多くの産科医のご理解を得られることを信じております。